初春のお慶びを申し上げます。
新年を迎え、新たな気持を持って歩まれることでしょう。
中世の修道院では、「メメント・モリ」と言って挨拶を交わしたそうです。この言葉はラテン語で「自分は必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警告です。「死を記憶せよ」ということです。
日本においても同じようなことを言った人物がいます。一休さんの歌った狂歌で「門松は冥土の旅の一里塚めだたくもありめでたくもなし」というのがあります。
門松をたてるごと年を重ねるから、門松は市に近づくしるしであるというのです。
生きているということは必ず死ぬということです。聖書に「人間には、一度死ぬことと、死後さばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とあります。
全ての人は死ぬことと、死後、神の裁きを受けることが定まっているのです。旧約の預言者アモスは「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4章12節)と語っています。私たちは一日一日と死に近づいているのです。死後、神の裁きを受けなければなりません。どんな権力者であっても、どのような高い地位にあっても、どのような慈善家であっても、どのような宗教家であっても、幼子から年寄りにいたるまで全能の神の裁きの前に立たなければならないのです。その備えはできていますか?
今日、私たちは将来に向けて色々な保険に入って、予期せぬ出来事に備えておられることでしょう。生命保険、がん保険、火災保険、地震保険、自動車保険、加害者保険、さまざまな被害に関する保険等に入っておられることでしょう。しかし、神の裁きに対する保険はありません。
しかし、神は御子イエス・キリストを通して救いの道を備えておられるのです。それは誰にも無代価で与えられているのです。その救いを得るために何の修行も行動も必要ないのです。ただ、イエス・キリストを自分の救い主として、信じ受け入れれば良いのです。それによって、神の裁きの時にも罪赦されて救いの恵みに与ることができるのです。
あまりにも簡単で易しいため、人々は信ずることができなく、イエスの救いを拒み、否定しているのではないでしょうか。他の色々な宗教と同じように見て、信ずることを拒んでいるのではないでしょうか。この世の宗教の中で誰があなたを救うためにあなたの身代わりとなって十字架に掛かって死なれた人がいますか。イエス・キリスト以外におられないのです。
ぜひイエス・キリストの備えてくださった救いに与ってください。イエスはあなたを愛し、慰め、励まし、あなたの涙を拭いてくださいます。誰もあなたを理解なくても、イエスはあなたを理解し、受け入れてくださるのです。イエスをあなたの救い主として受け入れ救いの恵みに入れていただこうではありませんか。
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