「無敵の雑学」によると、平安時代の貴族の住宅であった寝殿造りにはトイレが無かったと記されています。平安時代の貴族というと、源氏物語から十二単など優雅な姿のイメージを思い浮かべますが、当時の建物であった寝殿造りにはトイレが無かったという。トイレのことを「かわや」といいますが、これはそもそも「川屋」のことではないかと言われています。この時代、川の上に小屋をつくり、そこで用を足すことが普通であったそうです。しかし、貴族たちがわざわざ川まで行くわけがありません。彼らは「樋殿(ひどの)」と呼ばれる部屋に屏風を立てて、その後に「樋箱」と呼ばれる「おまる」を置いて用を足していたのです。十二単を着た女性は召使の助けがなければ一人で用を足すことはできなかったのではないでしょうか。優雅と思われた寝殿造りの建物の中には糞尿の匂いが漂っていたようです。だから香道が流行ったのではないかと私は思います。庶民も川までは行かないで道路で用を足すことが多かったそうです。そのため町には糞尿の匂いが漂い、四条北の小路は「糞の小路」と呼ばれていたとのことです。あまりにもひどい名前だったので、当時の帝がこれを「錦小道」に改名したという記録が残っているそうです。錦小路と言うと今は京都の食材の店が並んでいる錦市場のある所です。
イエスは言われた。「口に入る物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるからです。これらは、人を汚すものです」(マタイ15:16〜20)。
口に入るものが人を汚すのではありません。口から出てくるもの、心から出てくるものが人を汚すのです。そして、それが罪につながっていくのです。
新約聖書ヤコブの手紙1:14〜16に「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すと死を生みます」とあります。
欲が判断の基準になると失敗します。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すと死を生むと聖書が教えています。欲の奴隷となり、罪を犯し、神の前に滅ぶべき者とされている私たちを救うために、神の御子イエス・キリストがこの世に人となられて来てくださいました。そして私たちの身代わりとなって罪なき方が罪人となって下さって十字架に架かって死んでくださったのです。こうして、私たち全ての人の罪の赦しの道を備えて下さったのです。イエスは十字架で死に三日目に死からよみがえられ、今も生けるお方として父なる神の右の座におられるのです。
イエス・キリストは身元に来る者に主にある平安と赦しと祝福を与えてくださいます。
あなたもイエスにある恵みを体験してみませんか。
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