イエスは断食して祈っておられた時に試みるものが来て、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」と試みられた時、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)と言われました。
私たちは生きるためには、パンが必要です。日本的に言えば、ご飯です。さらにこのところを拡大解釈するなら、衣食住、すなわち物質です。私たちが生きていくためには衣食住が必要です。ものが必要です。しかし、人間は衣食住が足りれば満足するでしょうか? そうではありません。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われました。人間は肉体的に満たされても満足できないのです。人間は肉体だけではなく魂や心があります。魂の要求、心の要求が満たされなければ本当の意味において満足を得ることはできないのです。その魂、心に満足を与えるのは神の言葉であるとイエスは言われたのです。神の言葉こそ、私たち人間の魂や心の糧となるものなのです。そして神の言葉が肉体となられたのがイエス・キリストなのです(これを神学的用語で「受肉」を言います)。聖書は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と記しています(ヨハネ1:14)。イエス・キリストによって私たちの魂や心に糧を得て、平安と救いを得ることができるのです。
あなたは衣食住が満たされ経済的にも満たされているから大丈夫だと言われるかもしれませんが、あなたの魂や心は満たされ、安らぎを得ていますか、あなたの魂や心は飢えて叫んでいませんか。あなたの魂や心に満足を与え、平安と安息を与えられるのはイエス・キリストです。このお方以外に誰もおられないのです。聖書はこのように記しています。「この方(イエス・キリスト)以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒の働き4:12)。世の中にはいろいろな宗教がありますが、イエス・キリスト以外に私たちを救いうるお方はおられないのです。義なる神の御前にある罪ある私たちは当然自分の罪のため神の裁きを受けなければならない者です。しかし、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり神の裁きを受けて下さったのです。そればかりでなく、十字架上で死なれて三日後に死から復活され、死に打ち勝たれ、今も生ける救い主なのです。ユダヤ教徒は土曜日を安息日として守っていますが、キリスト者はイエス・キリストが死から復活された日曜日を主の日として礼拝を守っています。私たちは今日、忙しく、人間関係の複雑な社会に生きています。色々な問題や悩みに苦しんでいませんか。日曜日に教会に来て、静まって、あなたの魂と心糧である、神の言葉、聖書の言葉を聴いてみませんか。イエス・キリストにある平安を得てみませんか。お気軽に教会を訪ねて下さい。
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