投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2016-02-07 18:30:48 (765 ヒット)

  私の部屋に一枚のカレンダーが貼ってあります。イスラエルにあるオリーブ山の写真です。オリーブ山はエルサレムの神殿の丘の東側にある山で麓にはイエスが最後の晩餐の後 祈られたゲッセマネの園があります。オリーブ山は十字架で死なれたイエスが三日目に死から復活された後、四十日間ご自身を弟子たちに現し、教えられた後、このオリーブ山から昇天された場所です。この時イエスが天に昇って行かれたのをいつまでも天を見ていた弟子たちに二人の御使いがあらわれて弟子たちに、「ガリラヤの人たちよ。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有り様で、またおいでになります」と言われました。

 イエスは終末に再びこの地上に裁きをなすために来られるのです。それを「再臨」といいます。
 このことは聖書に預言として約束されています。イエスはオリーブ山に再臨されるのです。ユダヤ教徒たちはイエスをメシヤ(救い主)とは信じてはいませんが、やがてメシヤがオリーブ山に来られると信じてオリーブ山の西側の斜面にお墓を作っています。多くのお墓が作られています。メシヤが来たとき死人は死からよみがえらされると聖書に約束されているからです。イスラム教徒たちもエルサレムを支配していたときオリーブ山に向かっている神殿跡の城壁の入口を石で閉ざして神殿に入れないようにしています。聖書にしるされているイエスに関する預言はほとんど成就していますが、あとは再臨のことはいまだ成就されていません。
 私がイスラエルに行った時、残念ながらオリーブ山に行くことはできませんでした。一度行きたいと願っています。終末にイエスは必ずオリーブ山に再臨されるのです。私たちはその再臨の主に会う備えをしなければなりません。あなたは備えはできているでしょうか。備えはイエス・キリストを救い主として信じるだけでいいのです。教会で聖書を通してイエスについて、再び来られるイエスについて学んでみませんか。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2016-01-01 00:00:00 (557 ヒット)

 初春のお慶びを申し上げます。

 
 新年を迎え、新たな気持を持って歩まれることでしょう。
 中世の修道院では、「メメント・モリ」と言って挨拶を交わしたそうです。この言葉はラテン語で「自分は必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警告です。「死を記憶せよ」ということです。
 日本においても同じようなことを言った人物がいます。一休さんの歌った狂歌で「門松は冥土の旅の一里塚めだたくもありめでたくもなし」というのがあります。
 門松をたてるごと年を重ねるから、門松は市に近づくしるしであるというのです。
 
 生きているということは必ず死ぬということです。聖書に「人間には、一度死ぬことと、死後さばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とあります。
 
 全ての人は死ぬことと、死後、神の裁きを受けることが定まっているのです。旧約の預言者アモスは「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4章12節)と語っています。私たちは一日一日と死に近づいているのです。死後、神の裁きを受けなければなりません。どんな権力者であっても、どのような高い地位にあっても、どのような慈善家であっても、どのような宗教家であっても、幼子から年寄りにいたるまで全能の神の裁きの前に立たなければならないのです。その備えはできていますか?
 
 今日、私たちは将来に向けて色々な保険に入って、予期せぬ出来事に備えておられることでしょう。生命保険、がん保険、火災保険、地震保険、自動車保険、加害者保険、さまざまな被害に関する保険等に入っておられることでしょう。しかし、神の裁きに対する保険はありません。
 
 しかし、神は御子イエス・キリストを通して救いの道を備えておられるのです。それは誰にも無代価で与えられているのです。その救いを得るために何の修行も行動も必要ないのです。ただ、イエス・キリストを自分の救い主として、信じ受け入れれば良いのです。それによって、神の裁きの時にも罪赦されて救いの恵みに与ることができるのです。
 
 あまりにも簡単で易しいため、人々は信ずることができなく、イエスの救いを拒み、否定しているのではないでしょうか。他の色々な宗教と同じように見て、信ずることを拒んでいるのではないでしょうか。この世の宗教の中で誰があなたを救うためにあなたの身代わりとなって十字架に掛かって死なれた人がいますか。イエス・キリスト以外におられないのです。
 
 ぜひイエス・キリストの備えてくださった救いに与ってください。イエスはあなたを愛し、慰め、励まし、あなたの涙を拭いてくださいます。誰もあなたを理解なくても、イエスはあなたを理解し、受け入れてくださるのです。イエスをあなたの救い主として受け入れ救いの恵みに入れていただこうではありませんか。
 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2015-12-03 20:23:55 (602 ヒット)
メッセージ

「あなたがたは、幼な子が布にくるまれて飼葉おけに寝かしてあるのを見るであろう」(ルカ2:12a)

 「光陰矢の如し」と言われますが、今年も12月を迎えました。

 教会では12月は色々な行事があります。そのほとんどはクリスマスに関する行事です。クリスマスは神の御子がこの世に真の人間となってお生まれになったことを祝う日です。別な言い方をするなら「神が小さくなられた日」ということもできます。永遠から永遠にいます神が、全世界、万物を創造された偉大な神が小さな幼な子となってこの世にお生まれになった日です。

 神の御子がなぜ、幼な子とならなければならなかったのでしょうか。それは私たち人間の罪を取り除くために私たちの身代わりとなって神の裁きとしての十字架にかかって死ぬためでした。神は不死なるお方です。ですから死ぬために神の御子は人とならねばならなかったのです。神はその天の御位にあって私たちを救おうとされたのではなく、人となってこの世に生まれ、私たちと同じ体験をされたのです。生きる喜び、悩み、苦しみ等を体験され、手にまめが出来るほどに労働され、労働の苦しさ、つらさ、喜びを体験されたのです。
 
 私たちと同じ目の高さにまで来てくださったのです。それゆえ、私たちの生きる喜びやつらさ、苦しみ、悩み悲しみを自ら体験された者として、私たちのことをすべて理解し、私たちを励まし、強め、慰めてくださるのです。私たちの目から涙を拭いてくださるのです。あなたや私と関わりを持つために人となられて来てくださったのです。
 
 私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れることによって私たちの全ての罪を赦し、救いの恵みに入れてくださるのです。生きるということは人に言うことのできない色々なことがあるものです。イエスはあなたの人に言えないことを全て理解し、慰め、励まし、共に歩んでくださるのです。イエス・キリストは十字架にかかって死なれ、三日目に死からよみがえらされたお方です。今も生ける神、救い主として父なる神の右の座にあって私たちの祈りを父なる神に取りなし、私たちに愛の御手を差し出しておられるのです。この主イエスの御手に触れ、イエス・キリストを知ってください。年末の忙しい中、静まって自分の生き方について考えてみませんか。イエス・キリストにあって本当のクリスマスを祝う者になりませんか。
 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2015-08-05 14:56:46 (696 ヒット)
メッセージ

 
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。
 
 ここに、人を羊とたとえてイエスの来られた目的が示されている。とこしえの命に至る水を豊かに与えるためにイエスは来てくださったのである。
 私たちは自分の命の根拠、源をどこにおいているだろうか。いつまでも涸れることのないイエス、そこに泉を求めていくとき、イエスはその泉となってくださるのである。
 
 京都はこの時期暑い日が続き、渇きを覚える日々を過ごしている。私たちの日々の生活の中で色々なことで悩んだり苦しんだりして魂のうちに渇きをおぼえることがあるのではないだろうか。そのような時の渇きを豊かに癒してくださるのはイエスの与えてくださる命の水である。
 
 イエスはサマリヤの女にヤコブの井戸のかたわらで 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13,14)と言われた。
 
 あなたもイエスから豊かな命の泉から命の水をいただこうではありませんか。
 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2015-06-16 22:32:40 (648 ヒット)
メッセージ

 最近は色々な情報を簡単に手に入れることができるようになってきました。自分のいる場所を携帯電話のGPSで知ることができます。知らない町に行っても目的の場所を入力しておくと案内してくれます。自動車に乗っていてもカーナビで自分のいる位置を知ることができます。正しく用いれば大変便利に自分のいる位置を知ることができます。しかし、私たちの人生において自分はどこに向かって歩んでいるのか、知っていますか? どのように便利な道具があってもそれを知ることはできないのです。自分はどこに向かって歩んでいるのか。その道は正しいのだろうかと知ることは難しいのではないでしょうか。

 聖書の最初の書、創世記には神によって造られた最初の人間、アダムとエバは罪を犯して神の前から身を隠しました。神は身を隠しているアダムに「あなたは、どこにいるのか。」と語られました。この問いはアダムばかりでなく現代の私たちにも神は問うておられるのです。「あなたはどこに向かって歩んでいるのか。」「あなたは誤った道を歩んでいないか。」「あなたの進む先は大丈夫か」と神は問うておられるのです。父なる神から私たちを救うためにこの世に遣わされたイエス・キリストは「人の子は(イエスのこと)、失われた人を探して救うためにきたのです。」と言われました。

 あなたは失われた者となっていませんか。「あなたはどこにいるのか。」と問うておられる神にイエスにあって応答してみませんか。イエスにあってあなたの居るべき本当の居場所を見つけませんか。


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